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【田中雅子初代会長特別インタビュー】未来を担う介護福祉士の皆さんへ

目次

2024年6月4日(火)。富山市内にあるフォトスタジオ「Each day」。
初夏の日差しと土壁のぬくもりを感じるお部屋(omoi)をお借りして、日本介護福祉士会初代会長・田中雅子先生(富山県福祉カレッジ教授)に特別インタビューをさせていただきました。
田中先生の言葉の端々からは、介護福祉の専門職としての気概や情熱を感じるとともに、未来を担う現役介護福祉士へのエールや介護福祉士会のエールもいただきました。

※田中先生ご本人の思いを尊重し、お伺いした内容を限りなく忠実に掲載しております。


富山県にある『Eachday(omoi)』のお部屋

介護との出会いと当時の介護

介護との出会い

 私と介護との出会いは、予期せぬ家庭の事情がきっかけでした。奈良女子大学の文学部で幼児教育を学び、奈良県内での就職を予定していたところ、母が病に倒れ、急遽富山県に呼び戻されることとなります。
 母子家庭に育ち、当時弟は大学在学中のため、母の面倒は私が見るほかありません。時期的に新卒採用は終了しており、唯一職員募集をおこなっていたのが、その年に富山県内に初めて建てられた特別養護老人ホームでした。
 当時、施設で働く職員は「寮母さん」と呼ばれていました。若い寮母はおらず、40代~50代の寡婦や未婚の女性がほとんどでした。業務内容も掃除に洗濯、裁縫など家事一般の間接業務に多くの時間を取られ、その合間に3大介護をしているような状況でした。

 あの頃の業務で大変だったのが、古布を使って大量の布おむつを縫う作業。吸水性が良く何度も交換しなくて済むという理由で、ネル生地がよく使われていましたが、蒸れによるかぶれが多く、褥瘡の悪化で敗血症を発症するケースもありました。
 当時の介護は、自宅での介護を現場に持ち込んでいるようなもので、個人の価値観や感覚に依存していました。そのため、介護の方針を巡ってスタッフ同士の喧嘩も多かったです。

 他にも、当時私が見聞き、経験した介護実践は現在からは考えられないようなものでした。高齢者がベッドで一日過ごすのは当たり前、動きがあって手のかかる高齢者は縛り付ける、大声を出す人は落ち着くまで外に放り出す、など。中でも驚いたのは、食事介助を受け付けない利用者の対応で困っていたとき、先輩職員が私に言った「性根を付けるために、頬っぺたを引っぱたけ」の一言。
 この言葉が表しているように、当時の介護は支援者中心の介護であり、できないことを「お世話してあげる」介護でした。身寄りのない人が福祉的措置で入所していたケースがほとんどだったため、利用者が傷ついても、悲しむ家族もクレームを言う家族もおらず、今振り返ると利用者主体や人権尊重といった意識も皆無だったように感じます。


当時の介護を振り返り思うこと

 私は幼児教育を学び、人のプラス面に目を向けるよう教わってきたため、特養での対応を疑問に思っていましたが、目の前の入所者を放って逃げることはできず、疑問を抱えながらも介護の仕事を続けていました。
 その後、三好春樹先生の講義を聞く機会があり、そこで改めて「やはり、今の介護はおかしい」との思いを強くし、少しずつ職場を改革していきました。

 私の介護実践は、決して素晴らしいものではありません。私は良い仕事をしたとは思っていません。ですが、当時の介護について「それで良い」と思ったこともありません。本当の知識も技術も教育もなかった中で、他に方法が分からず仕方なしにおこなっていたのが当時の時代の介護だったのだと思っています。
 しかし「正しい方法」を知ったのならば、それをしないことは間違いです。間違いを正すためには、自分を変える必要があります。変えなければ、何も変わりません。「何が何でも変える」という強い決意で、介護現場の改革を進めました。

 私は今でも学生たちに対し、本当の知識も技術もなかったら、人を傷つけたり、死に至らしめる危険すらあるという話を、自身の経験を通して話すようにしています。




資格取得と職能団体立ち上げ

介護福祉士資格の取得から介護福祉士会の立ち上げまで

 今でこそ介護福祉士養成施設や実務者研修など、資格取得のための教育の場が豊富にありますが、介護福祉士の資格制度が制定された当初はそうした教育の機会はほとんどありませんでした。国家試験を受験するにしても、何をどう勉強したら良いか分からず、准看護師のテキストで試験勉強したことを覚えています。

 第1回国家試験に合格し、介護福祉士を取得したことは嬉しかったですが、周囲は「そんな資格を取ってどうするの?」という反応でした。介護福祉士の専門性に対する理解も、必要性もその当時は認識されていませんでした。 
 専門職は、教育と実践の両輪で成立します。私は独学で介護福祉士を取得したものの、土台となる教育がないので、中身が薄い。エビデンスを示すことができない。介護福祉士は、資格を取ることがゴールではなく、常に学び続けることが大切であるとともに、現任者研修の必要性を強く感じるようになりました。

 こうした中で1992年の12月に、日本介護福祉士会より一足早く、富山県介護福祉士会を立ち上げることとなります。
 きっかけは、富山県社会福祉協議会が開催した介護福祉士現任者研修での出来事でした。ホームヘルパーや寮母さん、介護福祉士が一堂に会した研修は、1泊2日の泊まり込み研修で非常に内容の濃いものでした。
 充実した時間を過ごした私たちはお礼の意味も込めて「来年もよろしくお願いします」と講師の先生にお伝えしたところ、先生から「(専門職として)自分たちでやりなさい!」と一喝されてしまいました。そこで、その場で集まっていたメンバーで「介護福祉士会を作ろう!」と意気投合し、一気に立ち上げたのが富山県介護福祉士会です。

 富山県介護福祉士会の立ち上げから半年ほどたった1993年7月に、厚生省の呼びかけのもと21府県の介護福祉士会の代表者が全国社会福祉協議会の一室に集まり、活動内容のヒアリングがおこなわれました。
 もともと自然発生的に各地で誕生した介護福祉士会なので、それまでは横のつながりどころか、どの県に介護福祉士会があるのかも分からない状況でした。富山県介護福祉士会にしても、会自体は立ち上げたものの、富山単独での活動には限界を感じていました。そこで、ヒアリングで集まった21府県のメンバーで全国組織を作ることを決めました。
 設立準備幹事として、岩手、富山、長野、滋賀、山口、香川、福岡の会長が中心となり、それぞれ役割分担して会則や事業内容など、会の枠組みの検討を重ねていきました。そして、1994年2月12日、大雪が降る中都内で開かれた設立総会にて、正式に日本介護福祉士会が発足することとなりました。

日本介護福祉士会広報誌『ニュースvol.1


初期の活動について

 立ち上げ初期の苦労は何と言っても資金面です。当時は事務局すらなく、どの会も会長の自宅や職場で会議などをしていたと思います。日本介護福祉士会も同様で、役員は会議の際、皆身銭を切って上京していました。宿泊費を浮かすため、初代事務局長のご自宅に何度も泊めていただいたことは、今でも懐かしく思い出します。
 また、一部の経営者の方々の中には、(労働)組合活動をする団体という、誤った見方をする方々も少なくなかったです。こうした偏見もあったので「自発的な学びの場」としての活動を特に心がけましたね。
 職場に迷惑をかけないよう、東京での会議後は夜行列車で富山に帰り、翌朝通常通り出勤することもしょっちゅうでした。シフト調整など、職場の仲間の協力がなければ、日本介護福祉士会の会長は務まらなかったと思います。

 日本介護福祉士会を立ち上げてからは、特に研修に注力しました。個々の都道府県介護福祉士会はまだ経営体力がないところも多く、日本介護福祉士会が代わりに中央・各地方単位で研修会を開催するなどの支援をおこないました。業界誌をチェックする中で、気になった方に連絡を取り、研修講師の依頼を直接交渉したことも少なくありません。


1994年11月25日第一回全国研修会    

 事業者団体が主催する研修は、専門家の先生が講師を務めるため非常に有意義ですが、各職場あたりの参加定員が決まっているため、毎回参加できるわけではありません。そうした意味では、以前日本介護福祉士会がおこなっていたブロック研修は、外部講師の先生や厚労省のお話が直接聞けるほか、地域の枠を越えた学びの機会を、会員に平等に提供するものとして、重要な役割を果たしていたと思います。


介護保険前夜

 日本介護福祉士会創立直後から、2000年の介護保険制度施行を見越した取組をおこなってきました。当時日本介護福祉士会は任意団体だったものの、介護福祉の職能団体として介護保険の制度を作る審議会等の場に傍聴させていただき、学ぶ機会を得たことは非常にありがたいことでした。
 そうした流れの中でケアマネジメント研究会を立ち上げ議論をおこない、第1回目の意見書として提出したのが「新たな高齢者介護システムの確立について」です。

日本介護福祉士会広報誌『ニュース』vol.10

 また、在宅におけるケアマネジメントに視点を置いたアセスメント様式「生活7領域からとらえた援助の必要性(通称:日介方式)」の発表やケアマネジメント研修会の開催など、当時から生活全体を捉える自立支援アセスメントを志向してきました。専門職は個人の主観的意見でなく、バックデータや客観的根拠に基づく説明が求められますので、そういう意味でもアセスメントは非常に重要であると考えています。

 毎年9月11日には、都道府県介護福祉士会と協力し、全国一斉介護相談を実施しました。介護保険制度以前はケアマネも地域包括支援センターもなく、家庭の介護について第三者に相談する場はありませんでした。年に1度の取組でしたが、ニーズの受け皿として多くの方にご利用いただき、お役に立てたと思っています。

全国一斉介護相談 電話相談中



介護保険制度がもたらした変化

 「介護との出会いと当時の介護」のところでも述べましたが、私がこの業界に入ったころの介護は、現在とは全く異なるものでした。私の職場はその後少しずつ改革が進んでいきましたが、介護保険制度の導入により完全に介護現場が変わりました。
 1点目は利用者の1日の流れと職員の働き方です。それまでは施設側の都合で利用者の1日の流れが設定されていました。日勤者の勤務時間が、利用者の1日の生活時間でした。介護保険制度の導入により、利用者の生活時間をベースに、施設の1日の流れが設定されることになり、それにより朝食時間は早くなり、夕食時間は遅くなりました。
 利用者の1日の生活時間が延びることで、それに対応する職員の働き方も変わります。日勤・当直のみだった勤務体系が、早番・遅番・夜勤の交代勤務へと変わっていくこととなります。

 2点目は、介護現場の意識の変化です。介護保険制度以前は、行政の措置でサービスの利用が決定されていたため「利用者のため」という発想は希薄でした。介護保険の導入により、利用者が自らの選択・自己決定でサービスを契約できるようになったことで、急速に利用者主体・人権意識・尊厳の保持といった考えが介護現場に浸透しました。ケアの目的・本質も「お世話してあげる介護」から「自立支援」へとシフトしていきました。



義母の介護を通して得たもの

プロとして義母を介護して

 「最後まで自宅で暮らしたい」との義母の願いを叶えるため、看取るまでの6年間、在宅で介護してきました。ベストな介護ができるよう、サービスを活用しながら。
 ショートステイにデイサービス、ホームヘルパー、訪問診療といったサービスは、ケアマネジャーさんが私たち利用者・家族の意向を聞いた上で、どう組み合わせるのがベストか考えて提案してくれました。
 たとえ家族であっても、究極的には自分とは異なる人格を持った他人です。他人同士が集まり支え合うのは、コミュニティの輪が広いか狭いかの違いであって、地域も家族もその本質は一緒であると考えています。私は義母を家族としてではなく、一人の利用者としてケアをし、プロとして彼女を看取ったつもりです。

 介護の過程は、たとえば「今こういう状態だから、このような支援をしよう」とか、結果に対し支援を組み立てる一連のサイクルの繰り返しです。人の思いや身体、心の状態は常に変化します。病気の治療にはある程度の「形」がありますが、介護については、一つひとつの細かい部分において「そのとき、その人」によって対応が異なることが往々にしてあります。
 介護の仕事は利用者がこれまで積み上げてきた経験により形成される「人生観・価値観」や、将来の展望をも考慮しておこなう必要があります。「介護はアセスメントが重要」と言われるのには、そういう背景があると思っています。


手をつかむのでなく、支える

 私自身70歳を過ぎ、自分の身体にこれまで思ってもみなかったような変化を認識しています。下り坂の中、できないことが増えていることに悔しさを感じながらも、自分自身を納得させながら、老化のプロセスを学びながら日々生活しています。
 老いは全ての人に必ず訪れます。その速度は違えど、みんな同じ道をたどります。思い通りにいかない不自由さや、これまでできていたことができなくなるもどかしさなど…誰もがその状況になるまで「自分はなるとは思っていない」のが老いです。

 では、年老いた人を前にして、介護福祉士に求められることは何でしょうか。私はその人の「手をつかむ」のではなく、「支える」ことだと自分自身の経験から実感しています。介護福祉士の皆さんには、サポーター、ケアパートナー、伴走者としての姿勢が求められます。たくさんの知識が必要なことではありますが、それが介護福祉の専門職として成長するということだと思います。



未来を担う介護福祉士へのエール

 介護福祉士は生活支援の専門職ではありますが、利用者にとっては「命あっての暮らし」ですから、利用者の一番身近な専門職として、健康状態の変化を予測できるようなを養うことが必要です。また、多職種連携にあたっては「共通言語」も必要となります。介護福祉士は医療の専門職ではありませんが、一定レベルの医学的知識は身に付けておくことが求められます。
 介護の仕事は決して簡単で楽な仕事ではありません。現場で経験した苦労は必ず、後々の人生に活かされます。
 科学や医学、疾病、障害に関する知識や、観察力をベースにした予測力に加え、記録力やアセスメント情報に対する読解力、理解力など、前提となる知識や様々な能力が介護福祉士には求められますし、現場経験を通してこれらのスキルが磨かれていきます。また、利用者を正しく理解するために、本人の生い立ちや環境因子も含めて総合的にアセスメントする力も非常に重要です。

 プレッシャーを感じる方もいるかもしれませんが、介護福祉士は自分たちが思っている以上に多職種から期待をされているということです。その期待に応えられるかどうかが、今後の介護福祉士に対する評価にもつながってくると思います。
 対利用者という意味では、利用者に「良い人生だった」と思っていただけるような仕事を心がけてください。あなたは利用者との間に信頼関係を構築できていますか。利用者に素直に謝ることができていますか。あなたが利用者だと仮定して、あなたの働く職場はあなた自身が最後の時間を過ごして幸せだと言える場所ですか。
 もしも質問の答えが「No」であれば、その理由を一つずつ解決していくことが大切です。幸いなことに、介護現場はこの30年の間に、利用者にとっても職員にとっても、確実に良くなってきています。くれぐれも時代に逆行した「力任せの介護」だけはしないようにお願いしたいです。また「人がいない、時間がない」からといって、ケアを受ける人の「声なき声」を無視するような、「利用者不在の介護」をしないように現役介護福祉士の皆さんにはぜひお願いしたいです。



介護福祉士会へのエール

 外国人介護人材については、今はまだ数は少ないですが、日本の人口構造の問題を踏まえると近い将来外国人介護人材は増えてくると考えて間違いないです。そうなったときに、どのように入会していただき、研修を受けていただくかについて検討しておく必要があります。
 また会員=会の一員です。介護福祉士会としては、単に学ぶ機会を提供するだけでなく、会員と連携していく取組みも今後必要になってくるでしょう。「今」はもちろん大事ですが、「未来をどうしていくか」の方向性を示すことが日本介護福祉士会には求められていると思います。

 教育の拡充の観点からは、誤嚥性肺炎の予防と口腔ケア、終末期のケアにおいて今後ますます介護福祉士の役割が求められてくると考えています。人材不足の状況いかんに関わらず、育成はとても大切です。介護福祉士会にはぜひ良質な講師陣による良質な研修をお願いしたいです。 
 介護福祉士会は、介護福祉士の、介護福祉士による介護福祉士のための職能団体です。誰かの助けを待つのではなく、自分達の努力で良いものを作り出していく必要があります。第三者評価事業や法定研修の実施、競争力・魅力のある研修の提供など、介護業界の発展に寄与し、介護福祉士に対して価値を提供し続けていく責務があります。そうした取組みの積み重ねが、介護福祉士会の評価や入会率の向上につながっていくと考えています。



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